Official Website of Ito Yoshihiro
伊藤 芳博 詩を旅する
『現代詩人文庫18 伊藤芳博詩集』
(2021年2月発売 砂子屋書房)
1700円+税
【お詫び】
・4月22日公演「ガザ・パレスチナへの詩と歌」の私のプロフィールに正確でない箇所がありましたので訂正し、関係者にお詫び申し上げます。
(誤)「世界の子どものための平和祭inベツレヘム」開催。
(正)日本アラブ未来協会・JVC主催「世界の子どものための平和祭inベツレヘム」の開催に協力。
【最新エッセイ】「うぴ子、その後」(個人誌「CASTER」50号 2023.8)
伊藤芳博の一推し! 注目のシンガーソングライター〝うぴ子〟
・現在、このHPのモバイル版は最適化されていません。PCでご覧ください。
プロフィール
1959年生まれ
1979年 大学の後輩、榊原淳子らと同人誌「詩心」発行
1980年 季刊詩誌「舟」(西一知)参加(~94年)
この頃、日原正彦、大西美千代と知り合う
1982年 同人誌『銀河詩手帖』(東淵修)復刊に参加
『詩人会議』11月号「新鋭詩人特集」
1983年 同人誌「橄欖」(日原正彦)参加(~現在)
1992年 第6回福田正夫賞 ※1 (第2詩集)
1991年 個人誌「CASTER」創刊(~04年、22年復刊)
1992年 同人誌「吐魔吐」(高木秋尾)参加(~01年)
1994年 『現代詩手帖』3月号「1994年新鋭詩人特集」
1995年 「南日本新聞」夕刊、朝刊連載コラム執筆
1996年 宅配詩誌「NANO」(須永紀子)参加(~98年)
1997年 『詩学』連載「今、詩をどう教えるか」(~98年)
1999年 同人誌「59(ゴクウ(」創刊(金井雄二、
岩木誠一郎)(~04年)
2001年 『詩学』詩書選評担当(~02年)
『詩と思想』現代詩時評担当(~02年)
2003年 8月、パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)
に、難民支援と平和祭のため入域
2004年 『詩学』連載「パレスチナ・レポート」
8月、パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)
に、分離壁取材のため入域
『詩学』連載「パレスチナ・レポートⅡ」(~05年)
2006年 詩誌「いのちの籠」(羽生康二)参加(~現在)
多治見市文芸祭(詩)審査員(~07年)
2017年 第13回日本詩歌句随筆評論協会賞
島崎藤村記念文芸祭(現代詩)審査員(~19年)
2018年 『詩と思想』詩集評担当(~19年)
2021年 現代詩人賞選考委員
第61回中日詩賞
現在 日本現代詩人会会員 日本現代詩歌文学館評議員
戦争と平和を考える詩の会会員
著書
<詩集>
1985年 『努屈することなかれ』(レアリテの会)
1991年 『どこまで行ったら嘘は嘘?』(書房ふたば)※1
1994年 『他人の恋人であっただろう少女に』(ふたば工房)
1995年 『赤い糸で結ばれていたかもしれないムカデ(につい
て考える二人)/どうしてもやってくる』(ふたば
工房)
2003年 『洞窟探険隊』(新風舎)
2005年 『家族 そのひかり』(詩学社)
2009年 『誰もやってこない』(ふたば工房)
2020年 『いのち/こばと』(ふたば工房)
<編著>
2000年 日本現代詩文庫104『伊藤勝行詩集』(土曜美術社出
版販売)
2001年 伊藤勝行詩集『一九二五・一・二八』(ふたば工房)
2005年 伊藤勝行詩文集『父からの手紙』(ふたば工房)
伊藤勝行エッセイ集『パピのいる風景』(私家版)
<アンソロジー・その他>
1980年 『壱千九百八拾年・現代詩人アンソロジー』(地帯社)
1982年 『鑑賞日本現代文学19 三好達治 立原道造』参考文献
(角川書店)
1992年 『人間と平和を愛することば』(三宝社)
『現代動物詩集』(潮流出版社)
1995年 『日・韓戦後世代100人詩選集』(書肆青樹社)
1998年 『jarebong #1』(ザイロ)
1999年 『いま中学生とよみたい101の詩』(民衆社)
2003年 『反戦アンデパンダン詩集』(創風社)
『春・夏・秋・冬 ふしぎ、ふしぎ』(北冥社)
2007年 『原爆詩一八一人集』(コールサック社)
2008年 『一編の詩がぼくにくれたやさしい時間』(PHP)
『anthology2008』(草原詩社)
2009年 『大空襲三一〇人詩集』(コールサック社)
2010年 『ステキな詩に会いたくて』(小学館)
『中高生と読みたい日本語を楽しむ100の詩』(たんぽ
ぽ出版)
『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(非売品)
あなたを旅する一編の詩
いのち/えらぶ
最初は先生がなにをしゃべっているのかがわかりませんでした
言葉はたしかに聞こえているのに
それがなにを意味するのか
わたしに関係があることなのか
だれに説明をしているのか
センショクタイとかトリソミーとか
わたしの耳を通過していったようでしたが
ショウガイという音を形にしようとして
そのうちに身体が震えだし
涙が止まらなくなって
いつまで生きられるかはわかりません
という意味がわからない
看護婦さんたちの優しい言葉の意味がわからない
応える言葉も考える言葉も失ったまま
首がすわるかすわらないかの娘を抱きかかえて
わたしは帰路についたのです
いつのまにか乗っていた電車のなかで
楽しそうに話している母娘や
ふざけ合っている兄弟たちを見たとき
やっと病院の先生から伝えられた言葉のあれこれが
わたしのなかで少しずつ現実というものと一致し始めました
ショウガイは生涯でも傷害でもなく
障害という漢字になって娘に降りてきました
どうしよう どうしよう
窓外の景色は飛び去ってゆきます
わたしも遠い山々や目の前の田畑や車や人や電信柱などと一緒に
瞬時に流されてゆくのでしたが
流されても流されても
わたしがいなくなったあと
わたしの腕のなかのこの子は生きていけるのだろうか
兄姉の将来はどうなるのだろう
生まなければよかった
生まれてこなければよかった
そんな言葉言葉言葉が頭のなかに浮かんでは渦巻いているのでした
このままわたしはどこへ行ったらいいのだろう
子どもの顔をまっすぐ見ることもできず
わたしは電車に揺られながら奈落の底へ運ばれていくようでした
主人になんと話そう
そんなとき(なぜだか)天から(だと思ったのですが)
ふわぁ と声がしたのです
どこからか呼ばれたような気がしたのです
見ると娘がわたしを見て笑っているではありませんか
この子はこれまで表情が乏しく
泣いたりむずかったりすることはありましたが
笑うことなどありませんでした
わたしや主人と目を合わせるということもありません
それがそのときはどうしたことかわたしを見て微笑んだのです
そのやわらかな笑みを見て
ああ この子は必死になにかを伝えようとしている
わたしはそう感じました
それまでわからなかった
わかりたくなかった意味という意味のすべてが
娘のわずかな笑みのなかにありました
この子はわたしを望んでいる
わたしを呼び戻しているのだ
生まなければよかった
生まれてこなければよかった
と考えていたわたしを娘は精一杯の声で呼んでくれたのです
わたしが乗っている電車はどんどん知らない駅を通過していくようでした
いつのまにか隣には主人も座って娘の顔をのぞき込んでいます
わたしたちと娘は意思せぬものに運ばれながら
突然 この子はわたしたちを選んで生まれてきてくれたのだ
わたしはそう確信しました
わたしたちだったらきっとこのいのちを愛してくれるだろうと
この子はわたしたちを親として選んで生まれてきてくれたのだ
自分はこの世に生まれてはいけないいのちかもしれないけれど
この親だったらきっとわたしのいのちを引き受けてくれるだろうと
探して求めて選んで懸命に生まれてきてくれたのだ
わたしはとても重いものを背負っているけれど助けてくださいね
そう願いながらわたしたちのところへやってきてくれたいのち
子どもは親を選ぶことができないとよく言われます
いいや 子どもたちは親を選んで生まれてくるのです
ぼくのわたしの人生はうまくいかないことがあるかもしれないけれど
あなたたちだったらきっとしあわせにしてくれると
いのちはそのようにいのちを選んで生まれてくるのです
生まれてこなければよかったいのちなんてありません
今はそんなふうに応える自信はあるのですが
そのときは ふわぁ という声と笑みが
まっすぐにわたしたちに抱きついたのだと直感的に理解しただけでした
その日わたしたちはどこの駅で降りたのでしょうか
この子の一生が短くても長くてもしあわせなものとなるように
わたしたちに任された大切ないのちといっしょに
尽きるまで運ばれていこうと
今は祈っています
子どもがもう一度わたしたちに生まれたあの日
わたしたちを乗せた電車は
銀河鉄道のように
見果てぬ闇に向かって光りながら走り始めたのかもしれません
※この詩には、エドナ・マシミラの詩「天国の特別な子ども」(訳・大江祐子)に触発された箇所があります。
詩を考える旅
『うぴ子』、その後 (個人誌「CASTER」50号 2023.8)
岩木誠一郎、金井雄二と三人でやっている「59」(ゴクウ)という同人誌の第29号(2023・3)に、私は「『うぴ子』という事件」というエッセイを書いた。(当時)24歳の女性シンガーについての〝推し〟の理由を、彼女の歌詞と現在の音楽状況から語った文章である。読んだ人からは、「その歳になっても〝追っかけ〟をやっているんですか」などという言葉も頂いたが、その言葉通り、この歳になっても一人のシンガーの成長の行方を羨ましく追い続けている。(私のHP「伊藤芳博 詩を旅する」にも掲載)
そのエッセイは、「一月二十一日、東京・渋谷プレジャープレジャーのライブに行くぞ」という高揚した言葉で終わっているが、その言葉通りワクワクして、そして恐る恐る東京まで出かけた。この「恐る恐る」というのは、「その歳になっても」という恥ずかしさみたいなものだが、それよりも新しい才能に出会う「ワクワク」が勝っていた。ライブ会場の入場口に並ぶや否や、私の恐る恐るは、恐るるに足らずに変わった。周りは私の前後世代ばかりなのだ。私の席はほぼ最後列だったので、集ったファンの頭部が見えた。髪の具合から推察して五十代、六十代の観客層。私の右隣も左隣も確認すると、神奈川だった千葉だったかの五十代のおっさん達であった。実は、私の息子も一緒に来ていて、三十代直前。そういう若者たちもチラホラ、いたにはいた。彼らの無表情からは、場違いな場所に紛れ込んでしまったという「恐る恐る」感が漂っていた。
さて、その後、四月二日には大阪・京橋ベロニカでのライブに、自信をもって参戦。こちらは二十代後半の娘を同伴。ディナー付きのライブで、六人のテーブル席であった。私の右隣は五十代の男性。左隣は六十代後半の男性。彼は三十代半ばと思われる娘さんを誘っていた。ファンクラブのサイトから、私の「『うぴ子』という事件」も読まれているようで、「あの『うぴ子事件』のiyoちゃん(私の会員ネーム)ですか!」と、私もちょっとした有名人になっていて、六人のテーブルは大いに盛り上がった。
その後、六月八日夕刻に名古屋・金山駅前のアスナルでFM愛知の公開番組に出演、という情報をゲット。もちろん私は仕事を早めに切り上げた。以下、私がツイッターに上げた記事。「……圧倒的な歌唱力と訴える歌詞で、辺りの空気を変えてしまった。私の右隣は、六十代~七十代のおばあさん、その隣が五十代~六十代のおじさん軍団、私の左隣は二十代~三十代の兄ちゃんたち。こんなファン層ってある!?」
私の追っかけは、その後、七月二日、名古屋・クラブクアトロでのライブへと続いていくが、会場のおっさん達に聞くと、皆さん東京、名古屋、大阪、その他、路上ライブの諸所を追っかけているとのこと。それにしても、うぴ子の歌がこれだけ幅広い年齢層のこころに届いているのはなぜか。「『うぴ子』という事件」に私は次のように書いた。
……きらびやかな現代社会の表層に向かって投げつけられた、無骨な石の礫だった。Twitter、Instagram、TikTok等に自作の歌もアップされていた。〈今〉という時代の重くてダークな闇。弱い者の声。どうしても伝えたい本音、怒り。自分への、他者へのエール。飾らない無防備な歌詞。突き刺さる言葉。現代のミュージックシーンにおいて、「うぴ子」の登場は間違いなく事件だと思う。
今、私は、「幅広い年齢層」と書いたが、彼女の歌が、(私としては)聴いてほしい若者にはまだ届ききらず、中年や高齢者の男どものこころを捉えているのも不思議な現象だ。
現代の若者のこころの闇や弱者の気持ちに寄り添った楽曲が多いからだ。歌い継がれるだろう(と私が願っている)名曲「僕らの淡い春」は、コロナ禍の中で学校生活を送った高校生達が、不安を抱きながらも明るい光を見続けて卒業していくという美しいメロディーの曲だ。メジャーで流れれば、高校生たちのこころを打たないはずがない(と、教員である私は思う)。が、うぴ子のファン層は、中年の男どもが主流なのだ。
その理由は何か。六十四歳である私が思うに、一つには、彼女が路上ライブで人気を得てきた歌うスタイル、ギター一本の引き語りにあるのだろう。そして社会の闇を撃つ批判精神、一人の人間の生き方を応援する一人の声。七十年代のフォークブームの中で音楽に目覚めたおっさん達には、「こんな歌を待っていた!」であったに違いない。その後のニューミュージック、Jポップの流れに乗れなかったおっさん達にとって、うぴ子の音楽は懐かしき若き時代を呼び覚ましてくれたのである。が、それだけではない。それは懐かしのメロディーなどではなく、中年や高齢者になってしまった自分たちが〈今〉を生きていく理由、その源泉を、彼女の歌に見出したからだ、と私は考えている。
・私はお前の気持ちがよくわかるよ普通に生きるって/なぜこんなに難しいんだろう
瓦礫の隙間から見据えた光を頼りに/探しに行こう生きる理由ってやつを
あの日のカラスにそっと呟いた/「私もお前もくたばるには早すぎるだろう?」(「カラス」)
・みんな人生迷い子さ/行き当たりばったり手探りで/泣いて笑って生きているのさ(「みんな人生初心者」)
そんなふうに、私も、〈今〉を生きているのだが、うぴ子のライブアルバム『Live in Tokyo』(2022)を聴きながら思ったことがある。
・いつかこの身は朽ち果てて/魂だけがあの世へ旅立つ (「人間だから」)
・死に急ぐな少年よ (「俯け、今は。」)
・ネットのニュースを見れば/一番多い死因が自殺らしい
怖くて恐ろしい「死」を/自らの手で選んでしまうよな
そんな社会が世界が一番怖いよ (「翼の折れた弱き戦士たちよ」)
・もしも明日/私が死んだら/悔やんでしまう/あの日のことを (「わるつ」)
・デリカシーもクソもない世の中になったよ
指先で人が殺せる時代になったよ (「匿名の檻」)
・私がこの世を旅立つ時/君は迎えに来てくれるかい? (「虹の橋」)
収録された全十五曲のほとんど全てに、様々な〈死〉が登場するのだ。若いパワーと繊細なマインドに漂う死の影。死の意識とは、生への慈しみから生まれる。生の有限性の反照だ。ライブ定番の「my life」という曲があるが、その出だしは「後悔のない人生なんてないわ」だ。曲は「それでも私は私なりに/人を愛してきたのよ」で終わる。二十四歳の若者が、普通「後悔のない人生」なんて歌うだろうか。「母よ」という曲では「あなたの元に生まれてよかった」と歌う。ある年齢を生き抜いてきた者の感懐として、そういう言葉は出てくるものではないのか。うぴ子の二十年そこそこの人生の、その切羽詰まった凝縮度は、どこからくるのか。これまで長年生きてきたおっさん達は、それらの歌詞や打ち鳴らすギタースタイルによって、自分の人生を納得しようとしているのではないか。二十代の女の子に「人生」を教えてもらっているなんて、どういうことだろう。
エッセイ「「うぴ子」という事件」(同人誌「59(ゴクウ)」29号 2023.3)
2022年12月某日、スマホ画面に「歌声がまるで言霊!」というYouTubeの惹句、中島みゆきの「ファイト」を歌っている女性の動画が映った。中島みゆきに誘われてクリック。知らない歌い手の声が流れてきた。路上ライブ、ギター一本にリクルートスーツ姿。その歌声に瞬時に引き込まれた。中島みゆきのカヴァーなどではない、彼女の「ファイト」だった。歌声と表情に〈今〉を歌うしかないという覚悟と、流されてたまるかという魂が迸り出ている。力強いギターストロークが、その心を押し出していた。断崖のような場所で、人生を賭けるように歌っている二十代前半だろう女性の姿は、かつて僕の中にもたぎっていた〈今〉を震えるように生きるという感覚を呼び起こした。彼女の名前は、うぴ子。「うぴ子」は、僕にとって一つの事件だった。
こんな歌い方、こんなギターの熱量があった。七十年代、生ギター一本で歌い続ける吉田拓郎の「人間なんて」を聴いたときの衝撃。自分という存在を揺さぶられた。井上陽水の「人生が二度あれば」には、それまで気づかなかった生きる物語があった。泉谷しげる「春夏秋冬」に吹いていたさびしい風、しかし愛を求めて歌い続ける姿。中島みゆき「世情」に流れていた哀しみ、敗れゆく者の、しかし闘い続ける姿。小室等「いま生きているということ」の美しさと怒り。真っすぐに心に迫ってくる歌詞とメロディーとギターの響き。そこには身体の奥底から絞り出される肉声の力があった。それを一本のギターが支えていた。
が、最近は、心地よいリズムに乗った、喉元だけから発声される美しい歌声が主流。多人数で踊って歌って時代を彩ってはいるが、どんな歌詞なのか、何を伝えたいのかわからない。歌い手の心が見えない、時代に媚びた楽曲は、ファッションでありファストフードであり、今という時代の薄っぺらな部分の商品、いやデータでしかない、と僕には思われる。
だからこそ、「うぴ子」は事件だった。きらびやかな現代社会の表層に向かって投げつけられた、無骨な石の礫だった。Twitter、Instagram、TikTok等に自作の歌もアップされていた。〈今〉という時代の重くてダークな闇。弱い者の声。どうしても伝えたい本音、怒り。自分への、他者へのエール。飾らない無防備な歌詞。突き刺さる言葉。現代のミュージックシーンにおいて、「うぴ子」の登場は間違いなく事件だと思う(2021年、初アルバム「人生初心者」。22年、2枚目「Live in Tokyo」発売。と言っても、個人レーベル?からで、販売枚数も少なく入手経路も限定的。彼女の存在はまだまだマイナーだ)。
けれども、僕には「やっと出会えた」という安堵感があった。僕の人生を五十年間並走してくれた吉田拓郎も、時代とともに去っていく。小椋佳、財津和夫、長渕剛、浜田省吾……彼らも歳を重ね、僕も同じように歳を取り、僕が老いるように、彼らも一歩先を老いていく。音楽は僕の人生の流れと同じように流れ、僕は新しい音楽を聴き続けてはいたが、どうしても向こう側へ流されていく淋しさがあった。だから、うぴ子の歌に「やっと出会えた」という新しい懐かしさを感じたのだ。「ああ、これで安心して次の時代を任せられる」と言うと大袈裟だが、心が時間軸のどこかに落ち着いたという感じがした。
デリカシーもクソもない世の中になったよ
指先で人が殺せる時代になったよ
こんなふうに歌い出すシンガーが、現代のミュージックシーンにいるだろうか。2020年、プロレスラーの木村花さんが、ネット上の誹謗中傷が原因で自殺してしまった事件があった(うぴ子自身もいじめ体験についてネット上で語っていた)。その事件にショックを受けて作ったという曲「匿名の檻」。
「匿名」という名の檻の外から
振りかざされた刃たちは
容赦なく私を切り刻んだ
こころと身体の痛みが、歌詞になり歌になり、歌声になった。書くことは自分を生きることであり、歌うことは他者と生きることである。創造の原点がここにはある。彼女の歌には、歌わざるを得ないその根拠が確かにある。最近、ある著名な詩人の講演を聞き、彼は「私の詩には、書く根拠がない」と宣ったが、生きている場所から発せられない言葉なんか書く必要もないだろう。
幸せとはなんだ?生きる意味ってなんだ?
答えを出せない自分が情けなくて悔しいよ
食いしばった歯の隙間から溢れ出た 嗚咽が
静かな 夜の街を響いてゆく
こんなふうにダイレクトに書き、歌うシンガーがいる。「カラス」は怒りを何かぶつけるような激しいギターストロークに導かれた曲だ。こういう心の声を、今の若者たちは失ってしまったのか、と思っていたのだが、そうではなかった。その心を代弁するかのように、薄っぺらな現代の表層膜を突き破って、うぴ子は現れた。そして、逆に、人生の有限な時間が見えてきた僕のような高齢の生を揺さぶったのだ。この歌の最後は「私もお前もくたばるには早すぎるだろう?」。そう、早すぎるのだ、僕もまだ。そんなふうに六十三歳の男に思わせる二十四歳の歌って! 事件としか言いようがない。
「世界中のライフル銃をギターに持ち替えたなら」という曲がある。ロシアのウクライナ侵攻に対して、何ができるのかと考えながら作った曲だという。
例えば世界中のライフル銃をギターに持ち替えたなら/銃声ではなく平和なMUSICがあちこちで鳴り止まぬだろう
例えば世界中の手榴弾が冷えたビールに変わったら/敵も味方も関係なく朝まで肩組み語り合うでしょう
折しも、12月19日の「中日(東京)新聞」のコラムは、第一次世界大戦中のイギリス軍とドイツ軍のクリスマス休戦の話。「一九一四年のクリスマスイブの日、ドイツ兵の一人が前線の近くにやってきて「きよしこの夜」を歌った。最初はドイツ語。次に英語。……これに応えて今度は英軍の兵が「きよしこの夜」を歌い始めた。こうして撃ち合いは終わり、双方の軍は無人地帯へ退いたのだという」。5月、鈴木まもる文と絵の『戦争をやめた人たち』という絵本が出ている。その絵本では、さらに着ていた上着を丸めてボールを作り、サッカーが始まったというエピソードも描かれている。帯文には「銃弾ではなく歌を。大砲ではなくサッカーを」とある。うぴ子の歌は間違いなく世界の現実を受け止め、平和への願いにシンクロしている。〈今〉を生き、世界の痛みを感じ、そして歌は自身と等身大の希望だ。
「我慢させてばかりでごめんな」
ホームルームで放たれた言葉たちに
思わず下を向いて溢れた/どこにも行き場のない
しょっぱい気持ち達
突然閉ざされた日々で
戸惑う時間さえ与えられずに(略)
「これから僕ら/どうなるんだろう?」(略)
ばつ印ばかりのカレンダー
もう何もかもが嫌になったんだ
綺麗事に殴られ続けて
(「僕らの淡い春」より)
僕は高校や特別支援学校の教師をしていたので、この気持ちは痛いほどにわかる。コロナ禍により突然、学校は休校。授業はオンライン、ほとんどの行事は中止になり、学校生活は閉ざされた。希望を抱いて高校に入学してきた生徒たちの入学式は縮小、大学に進学した彼ら彼女らはどうだったのだろう。「我慢させてばかりでごめんな」という言葉を聴いて、僕は涙が出そうになった。僕も我慢ばかりさせてきた教師であったし、僕もまた我慢ばかりしてきた教師であったからだ。「ばつ印ばかりのカレンダー」もそうだ。実感である。学校祭も球技大会も修学旅行も部活動も×××。コロナ禍三年間の児童生徒、学生のことを思いながらこの曲を聴くと、目頭は熱く胸は苦しくなる。それでも、うぴ子はそこに希望を歌う。メロディーラインも美しく、例えば、いきものがかりの「YELL」や森山直太朗の「桜」にも匹敵する名曲として歌い継がれるに違いない。
一月二十一日、東京、渋谷プレジャープレジャーで、うぴ子のライブがあった。チケットを完売寸前に入手。そのライブの熱さがまだ冷めやらない。「うぴ子という事件」は、まだまだ続く。